千年祀り唄
―無垢編―
10 十五夜草
そよ風が吹いていた。
淡い緑の草原に疎らに咲く野菊。
頭上では鳥が羽ばたき、幼子達の笑い声が響いていた。
幼子は五人。
若い男が鳴らす鈴の音を追って駆けて来る。
――むく、あれはなに?
一人が訊いた。
――だれかいるよ
――たおれているよ
――あれはだれ?
その声は不思議とエコーが掛かったように草原に木霊した。
「人だ」
無垢と呼ばれた男が近づく。
それは若い女だった。
――どうしたの?
――どうしてねてるの?
――これはなんなの?
子ども達が訊きたがる。
「わからない。だが、放っておく訳には行くまい」
無垢はそっと彼女に触れてみた。感触があった。が、女は奇妙な着物を着ていた。
「妖かもしれぬ」
妖の中には人間の女に化ける者もいる。だが、ここは妖の領域ではなかった。だとすれば、女の方が無垢達の領域に侵入して来たのだ。女には意識がなかった。だが死んでいる訳でもない。
「取り合えず水を……」
無垢は竹筒を開け、女の口に水を垂らした。
「こ…こは……どこ……?」
女が目を覚ました。
「気がついたか?」
着物姿の若い男が傍らにいた。周囲には3才にも満たない子ども達が五人。珍しいものでも見るようにじっと彼女を取り囲んでいる。
――うごいた!
――いきてた!
――これはひと?
――あやかし?
「な、何なの? あなた達!」
女は驚いて跳ね起きた。その勢いで竹筒から水が毀れ、女の唇と服を濡らし、無垢の手を濡らした。それを見て、女は慌てて詫びた。
「ごめんなさい。あの、突然だったもので水が……」
「構わぬ。だが、おまえはいったい何者だ? 何処から来たのだ?」
男が訊いた。
「何処からってその……あなたこそ何なの? そんな昔の着物なんか着ちゃって……」
「おれは無垢だ。おれの姿が見えるのなら、おまえは人ではないな。妖か?」
「妖? 何言ってるの? 私は人よ。羽田紫音(はねだ しおん)っていうの」
「紫音か……。ならば、おまえは落ちて来たのか」
「どういうこと?」
「ここはあの世とこの世との境界。人には立ち入れぬ領域だからだ」
「意味がわからないんですけど……」
「おまえは生きながらにして死んでいる。生死をさまよっている状態にあるということだ」
「何ですって?」
彼女には納得がいかなかった。
――だれなの?
――ひと?
――それとも、あやかし?
――あぶなくない?
――かみつかない?
子ども達が訊いた。
「かみつかないわよ。動物じゃないもの。この子達は何? 無垢の子ども?」
「もっこだ」
「何なの、それ……」
「生まれる前の赤子の魂……」
「生まれる前の……?」
彼女は気が遠くなりそうだった。
「訳わからない。どうしてこんなことになってるの? 昨日までは私……」
――これはなに?
もっこの一人が女の首に巻かれていた布を引っ張って訊いた。
「スカーフよ」
――これはなに?
もう一人が指輪の石を指して訊く。
「ジルコニアよ」
――これはなに?
また別の一人が腕に付けていた革のベルトを見つけて言う。
「時計よ」
そこで彼女ははっとした。
「そうだ。今何時なんだろう?」
しかし、時計は止まっていた。
「変ね。先月電池を交換したばかりなのに……」
――なあに?
――それなあに?
もっこ達が質問する。
「そんなにいろいろ訊かれても困っちゃう。ねえ、私からも訊いていい?」
彼女が言った。
「ああ」
無垢が頷く。
「さっきの話。生まれる前の魂って……」
「もっこは一度人として生まれ、幼くして死んだ。だから、ここに来て、もう一度生まれるまでの時間を過ごす」
「それじゃ、あなたがこの子達を転生させるってこと?」
「ああ」
無垢はじっと彼女の時計を見ていた。
「気になる? これは腕時計よ。でも、今は止まっちゃってるから役に立たないけど……」
「時を刻む道具か。ここには必要のない代物だ」
「でも、便利よ。アラームも鳴るし……」
「おれは時を刻まない。もっこ達も……。だから必要がない」
そう言うと無垢は立ち去ろうとした。
「ちょっと! 待ってよ、無垢。何処へ行くの?」
「さあ……」
風が流れていた。
鈴の音が小さくちりりと鳴った。
――むく?
――いくの?
――まって
――むく
――いかないで
もっこ達が言った。
「行かないで」
娘も言った。
「時計……いやなら使わない。だから……」
男の足が止まった。彼が振り向いた時、再び鈴の音が聞こえた。
「無垢……」
男の顔は僅かに幼さを残していた。髪を束ね、結んでいるのは紫の紐。
「ねえ、腰に差しているその刀は本物?」
彼女が訊いた。
「本物とは?」
「その……人を切ったりできるのかって訊いたの。時代劇みたいに……」
「……」
無垢が黙っているので紫音は気まずそうに俯いた。
「ごめん。変なこと言って……。模造刀だよね。今時、刀持ってる人なんかいないし……」
「真剣だ」
無垢が言った。
「え? でも……」
「人は切らぬ。これには封印が掛かっているからな」
見ると、刀の柄にはあの紫の紐が括り付けてあった。そこには小さな鈴も付いている。先程、彼女が聞いた鈴の音は、無垢のそれだったに違いない。
「ねえ、訊いてもいい? 無垢って年は幾つなの?」
「……十七だ」
「十七? 私より4つも下じゃない。驚いた。無垢って大人っぽいね」
「ここでは年を取らぬゆえ……。多分おまえよりは随分上になっている筈だ」
紫音は不思議そうに男を見た。
「年を取らない? それじゃあ、無垢は時の精なの?」
「……?」
「知らない? 『青い鳥』というお話に出て来るの。未来の国で、生まれる前の子ども達を預かっているのよ」
「青い鳥?」
「その鳥を見つけたら幸せになれるんだって。知らない?」
「知らぬ」
――あおいとりって?
――しあわせ?
――しあわせってなあに?
――みらいのくにってなあに?
――あおいとりはここにいる?
もっこ達が訊いた。
「きっとね。本当の青い鳥は、いつも身近なところにいるんだって……」
――みぢかなところ?
――どこに?
――しおんがもってる?
――むくがもってる?
――しおんは あおいとりなの?
「ちがうわよ。でも、そうなれたらうれしいな。私、みんなが幸せになって欲しいって思ってるの」
「皆が幸せに……か」
無垢は目を細めると遠い何かを見つめていた。
「そうよ。だから私、ミュージカルスターを目指したの。ミュージカルは、それを観た人を幸福にするわ」
「ムージカ?」
無垢が訊いた。
「舞台でね、歌って踊ってお芝居をするの」
「歌?」
微かな記憶が彼の胸に小さな波を打った。
「そうよ。歌は人を幸せにすると思う。ねえ、無垢も歌わない? それにもっこちゃん達も……。私達丁度7人いるから、音階が歌えるわ。まるでサウンド オブ ミュージックみたいで素敵じゃない?」
「……?」
「知らないの? でも、有名なミュージカルなのよ」
無垢ともっこ達は呆気に取られて紫音を見つめた。
「ラララ、幸せを作ろう」
――ラララ。しあわせをよぼう
――ぼくたちのゆめを
――ラララ、ときめくそらに
――きらめくきぼう
――つばさをひろげ
「僕達は飛べる……」
「僕達は行ける。遠くへ……」
彼女は踊りながら草原を駆けた。もっこ達もそのあとを追い、無垢はそんな彼らの光を見ていた。
「あら、この花変わってるね」
彼女は草原の中に紫の花を見つけた。
「何の花かしら。菊?」
「十五夜草だ」
無垢が言った。
「へえ。この花がそうなんだ」
紫音はそっと顔を近づけて、その花の匂いをかいでみた。
「私の名前、花の名前から取ったんだって……。紫苑って、別名は十五夜草。実際に見たのは初めて。意外と地味だね」
「だが、清楚で芳しい香りがする」
男が言った。そんな彼の背後でもっこ達が歌いながら手を繋ぐ。
「無垢は花が好きなの?」
「ああ」
「そうね。花は人間のように不平を言ったりしないものね」
紫音はふっとため息をついて空を見上げた。
「それぞれみんな美しいのに人間が勝手にランク付けして差別を助長してる。白、赤、黄色、みんなそれぞれの価値があるのに……」
――しろ
――あか
――きいろ
――みんな、それぞれうつくしい
「紫音……」
風が二人の間を駆け抜けて行った……。
交わることのない思い出が……。
霧の向こうに流れて行った。
――しおんのはな
――きれいだね
もっこが言った。
――むくのはなもある?
「いや……」
男が答える。
「無垢には白い花が似会いそうね」
紫音はそう言うと、少し竹のある木に咲いていた鈴蘭を見た。
「可憐で可愛い花だわ。まさしく純粋無垢って感じする……」
「だが、その花には毒がある」
無垢が言った。
「そうなの?」
無垢が頷く。甘く切ない花の香りに包まれて、無垢は静かに目を伏せた。
――うたおう
――うたおう?
もっこが言った。
――もっとうたおう
――もっとおしえて
「そうね。歌いましょう」
それは彼らにとって幸せな時間だった。花つみ、手あそび、かくれんぼ。
素朴な時間が過ぎて行く……。
もっこ達は音階を覚え、メロディーを覚え、ハーモニーを覚えた。
そして、月が満ち、もう一度欠けて満ちた日。紫音が言った。
「長い夢だね。もう随分長くここにいる気がする……」
「帰りたいのか?」
無垢が訊いた。
「そりゃね。けど、ずっとここにいてもいいよ。できれば、ずっと無垢の傍にいたい……。あ、でも、そうすると、いきなり5人の子持ちになっちゃうね」
「もっこはいずれ旅立って行く……。おまえもいずれは旅立つだろう」
無垢はそう言って目を伏せた。
「帰りたくないと言えば嘘になる。でも、ここで無垢達と暮らして行くのもいいかなって……。何にも束縛されずに、自然のまま生き続けられたら……。無垢な心のままで……。あなたのように……」
男はそんな彼女から視線を逸らして歩き出す。
「待って」
そんな無垢の手を掴む彼女。男ははっとしたように彼女を見つめた。
「どうして逃げるの?」
「逃げる?」
「このところいつもそうだわ。どうして私を避けるの?」
「それは……」
静かな月の夜だった。遠くで鳴くのは梟か、妖の怪し気な声……。
「保てなくなるから……」
「どういうこと?」
「おまえと触れ合ったことで、おれはおれでなくなった……。もう純粋なままではいられない。これ以上そなたと関われば、おれは……」
「無垢でないなら何なの? 本当はあなたにも別の名前があるんじゃないの?」
「別の……名前……?」
暗い森の影が大きくなった。そこから洩れる妖の声も……。
(そうだ。おれは昔……)
音もなく過ぎて行く蛍……。その淡い光が深い悲しみの片鱗を映し出した。
「そうよ。あなたは自分の過去から逃げてる。それでは何も進まないわ。それがどんなに辛い過去でも、きちんと向き合わなきゃ駄目よ。そうでなきゃ、あなたは一生この場所に捕らえられたまま……」
「……」
――ほたるだ
――きれい
――つかまえて
もっこ達がそのあとを追った。
――ねえ、つかまえて
淡い光の中で舞う少女……。
――若様、また会いに来てくださる?
――もっとおまえの喜ぶ顔が見たい。そして、もう一度おまえの歌を聞かせて欲しい……。もう一度……
(……!)
月の影に映し出された記憶……。
しかし、男はそれを振り払った。
そして、言った。
「それを……おれ自身が望んだのだ」
その目には鋭い光が宿っていた。ぞっとするほど冷めた目だった。
「無垢……?」
「おまえには戻るべき世界がある。だから帰れ。もうおれに関わるのはよせ」
「私だって帰りたいわよ。でも、どうしたら元の世界に戻れるのかわからない。だから、ここで生きて行こうって決めたのに……」
「叶わぬ」
無垢が言った。
「心はいつまでも体を離れてはいられぬのだ。もしも体が死ねば極楽へ……。死なずに戻ることができれば、また元の暮らしが始まる。どちらにせよ、もう二度とここに来ることはできぬ。おれのことも、もっこ達のことも忘れて……おまえは別の世界で生きるしか……」
「忘れない!」
紫音が言った。
「私、絶対に忘れない。無垢のことも、もっこ達のことも、忘れないから……」
風が心地良く草を揺らす。そこに咲く紫苑の花も……。
「傷つくだけだ。だから……もう関わらないでくれ」
そう言うと無垢は草原の中を歩き始めた。
――むく?
――いくの?
――どうして?
――しおんは?
――つれていかないの?
もっこ達がそのあとを追う。
「そうよ。どうして? 何で私を置いて行こうとするの?」
頭上で鳥が鳴いていた。
――むく?
――うたわないの?
――ねえ、むく
――どうして?
――しおんは……
鳥がさざめいていた。ざわざわとノイズが紛れて来る。
「これは……」
空に亀裂が入っていた。そこから賑やかな街の騒音が漏れ聞こえて来る。
「世界が歪んで……!」
秒針が波打ち、境界が重なる。扉が開いたのだ。その瞬間が来ることを、男は知っていたのかもしれない。
「無垢! 私、忘れないから!」
遠くなる彼の姿に紫音は必死に呼びかけた。
「向こうの世界に戻って舞台に立ったら、1番の席を開けておく。あなたともっこ達のためにボックス席を必ず開けておくから……。あなたのことを心から……」
そこで世界は反転し、景色が変わった。
愛してた
宙に消えた言葉……。
――心から愛してた……無垢、あなたを……
彼女は白い病室にいて、幾つもの管に繋がれていた。蛍光灯の白い光。人工的な物ばかりに囲まれた部屋。
――忘れない
「無垢?」
驚いて周囲を見回すが、そこには何の気配もない。
無垢達がいた境界の風は、それきり二度と吹いて来なかった。
が、そこから彼女の奇跡の人生が始まった。時計は動き始めたのだ。絶望的な事故からの再帰。3カ月後に戻って来た意識。それから彼女はリハビリに励み、舞台への復帰を遂げた。
「この役はどうしても君に演じて欲しかったんでね。必ず回復してくれると信じて待っていたんだ」
劇団の主宰者で演出家の黒木が言った。
「ありがとうございます」
彼女は心から感謝した。そして、期待通り、最高の歌と演技を披露した。
そして、公演の日。彼女は約束通り1番のボックス席を開けておいた。舞台の上からもその席はよく見えた。しかし、舞台の間、その席に座る者はなかった。
「仕方ないよね。無垢はこの世界の人じゃないんだもの」
彼女は寂しさを覚えた。そして、千秋楽の日。舞台のあと、誰もいなくなった観客席を見た時、彼女は自分の目を疑った。誰もいなかった筈の1番のボックスの隅に、紫の花が置かれていたのだ。それはあの十五夜草の花だった。
「来てくれたんだ」
彼女はそっとその花を胸に抱いた。
――この花は何?
――十五夜草だ
――へえ、初めて見た。私の名前ね、紫苑ってこの花の名前から取ったんだって……。でも意外と地味だね
――だが、清楚で芳しい香りがする……
「無垢……」
――あおいとりをみつけたよ
――むくのとなりで
――しおんのとなりで
――ほんもののしあわせはたいせつだから
――たがいのめにはうつらないんだね
風に乗って、もっこ達が囁く。
けれど今は、それも皆、夢の中……。
「無垢……。もう届かない憧れになってしまったけれど……。あなたを遠くから見守っています」
忘れない。いつまでも……
――忘れない
そんな声が聞こえた気がして無垢は振り向いた。
そこには散り掛けた十五夜草の花が一つだけ咲いていた。
――ラララ
――ララララ……
少し離れた場所で、もっこ達が楽しそうに歌っている。
――むく
――はなをみてるの?
――じゅうごやそうを
――しおんのはなを
「ああ。だが、この花にはもう一つ別の名前が付いている」
――べつの?
「鬼の醜草だ……」
――おにのしこぐさ?
「花はいつもここに咲いておれを見ていた」
――いつも?
「逃れられずに、うとましくさえ思っていた。だが今は……」
――いまはちがうの?
「紫苑を……この花を愛しく思う」
――忘れないよ、あなたのこと……。無垢やもっこ達のこと……
(ともにここにあろうとする命の花を……)
そっと翳した手の中で、はらはらと花びらが散った。
――いこう
――いこう、むく。とおくへ
「ああ……」
彼らは再び歩き始めた。
風の向こうへ……。
夢の続きを紡ぐために……。
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